如信上人は善鸞の子で親鸞聖人の孫に当たる。
上人が63歳のときに誕生された。20歳前ころまで京都において聖人たちと生活を共にしておられたが、父善鸞が造悪無碍の異議を是正するために関東へ赴任されるに当たって一緒に移住された。
その後、善鸞は関東教団を掌握するために独自の異議を唱え、聖人から義絶を申し渡される結果を招いたので、関東門徒の信頼を得ることはできなかったが、そ の子如信は聖人から直接教えを承け、しかも的確に継承した人として尊敬された。のちに親鸞門流によって作製された『親鸞聖人門侶交名帳』の弟子として高く 評価されている。
如信上人は実際に青年期に聖人から親しく教えを承け、それに基づいた教化を関東地方において行われたので、今日、その遺跡として陸奥国(福島県)白川郡大網の願入寺や常陸国(茨城県)久慈郡大子町上金沢の法龍寺などが讃えられる。
如信上人の威徳は関東ばかりでなく、親鸞子孫によって護持されている本願寺へも大きな影響を与えた。如信上人は京都大谷(本願寺)で行われる報恩講には努 めて上洛するように心掛けておられたと伝えられているが、折にふれて上洛したときは大谷の覚恵・覚如上人父子に親鸞聖人の教えを説かれた。また覚如上人の 伝記絵巻である『慕帰絵』・『最須敬重絵詞』には、覚如上人が20歳のごろ、父覚恵とともにおよそ2年間にわたって関東の聖跡巡拝をされたとき、如信上人 と親しく接見されたことが記されており、この間に作製された「如信上人寿像」が本願寺に伝蔵されている。このほか建治3年(1277)に覚信尼より下人 「びわ女」を預かった旨の如信上人自筆書状も現存する。
これらのことから如信上人と本願寺の関係はかなり密接であったことが知られるが、のちに覚如上人は本願寺を公称するに当たり、開祖を親鸞・第二世を如信・第三世を覚如と位置づけられ、「三代伝持の御影」を作製して門徒に示された。
なお、覚如上人が、実際に大谷廟堂を守護した父覚恵を法流に加えることなく、如信上人を位置づけられたのは、関東門徒にはその方がはるかに説得力をもったことが併せ考えられる。
(福間光超、『築地新報』1994年6月号)
祥月命日 2月2日
覚如上人(本願寺第三世)へ
その後、善鸞は関東教団を掌握するために独自の異議を唱え、聖人から義絶を申し渡される結果を招いたので、関東門徒の信頼を得ることはできなかったが、そ の子如信は聖人から直接教えを承け、しかも的確に継承した人として尊敬された。のちに親鸞門流によって作製された『親鸞聖人門侶交名帳』の弟子として高く 評価されている。
如信上人は実際に青年期に聖人から親しく教えを承け、それに基づいた教化を関東地方において行われたので、今日、その遺跡として陸奥国(福島県)白川郡大網の願入寺や常陸国(茨城県)久慈郡大子町上金沢の法龍寺などが讃えられる。
如信上人の威徳は関東ばかりでなく、親鸞子孫によって護持されている本願寺へも大きな影響を与えた。如信上人は京都大谷(本願寺)で行われる報恩講には努 めて上洛するように心掛けておられたと伝えられているが、折にふれて上洛したときは大谷の覚恵・覚如上人父子に親鸞聖人の教えを説かれた。また覚如上人の 伝記絵巻である『慕帰絵』・『最須敬重絵詞』には、覚如上人が20歳のごろ、父覚恵とともにおよそ2年間にわたって関東の聖跡巡拝をされたとき、如信上人 と親しく接見されたことが記されており、この間に作製された「如信上人寿像」が本願寺に伝蔵されている。このほか建治3年(1277)に覚信尼より下人 「びわ女」を預かった旨の如信上人自筆書状も現存する。
これらのことから如信上人と本願寺の関係はかなり密接であったことが知られるが、のちに覚如上人は本願寺を公称するに当たり、開祖を親鸞・第二世を如信・第三世を覚如と位置づけられ、「三代伝持の御影」を作製して門徒に示された。
なお、覚如上人が、実際に大谷廟堂を守護した父覚恵を法流に加えることなく、如信上人を位置づけられたのは、関東門徒にはその方がはるかに説得力をもったことが併せ考えられる。
(福間光超、『築地新報』1994年6月号)
祥月命日 2月2日
覚如上人(本願寺第三世)へ

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