寂如上人は、良如上人の第二男として慶安4年(1651)に誕生、長男が早逝であったため法灯を継承された。
良如上人の逝去のあとをうけて継職されたのは、わずか12歳のときであり、それ以来、75歳で逝去されるまで在職されたので、宗政を執られた期間は63年におよび、歴代宗主のなかで、もっとも長期にわたったものであった。
上人が継職された寛文2年(1662)前後は、江戸幕府の諸制度がようやく緒に
つき、やがて仏教政策のうえでも全宗派に対し統一した寺院法度が出されるようになり、寺請制度や本末制度が確立した時代であった。また、上人の晩年のころには、幕藩体制の経済的な矛盾が露呈されるようになり、質素倹約が厳しく求められる状態であった。
上人の宗政は、このような時代に対応しながら、教団内部の諸制度を整えられたことに最大の特徴がある。従来、門末において依用されている免物や行事は必ずしも統一されているとは言えない点があった。このため歴代御影の色衣や形態の規定、和讃・御文章の抜粋の統一、法衣・勤式作法の改正などを制条に示すことによって、その統一をはかられたのである。それらが今日の末寺の行事・荘厳・声明などの基本となって受け継がれている。
このほか再三にわたって制条を出され、そのなかには法衣・衣服・お斎・葬式・乗り物等について華美にならないよう誡められたものもある。
教団組織のメンでは、とくに御坊(別院)の拡大を図られたことが顕著で、京都に来山御坊をはじめ、諸地の由緒寺院を御坊にとりたてられ、また、従来の御坊の再興・発展をはかられた。こうした宗政の動向のなかで、上人は江戸御坊の発展についても積極的にのりだされ、幕府の厳しい規制にもかかわらず特別の許可をえて、延宝7年(1679)には、紫宸殿造の大規模な本堂が完成した。
本山境内の建築物として特筆すべきは、延宝6年に建立された現存の経蔵であり、これは良如上人時代に得ていた点海版「大蔵経」のためのもので、回転式書架の構造が用いられた、いわゆる輪転蔵である。
上人は、仏学・漢学・書道に秀でた学徳兼備の方であったが、とくに書を通じて朝廷や書道家とも関係をもたれたので、霊元上皇の宸翰や国宝・熊野懐紙などが本山に伝蔵されている。また、大谷本廟の「明著堂」や「龍谷山」の額は上人の筆跡である。
享保10年(1725)7月、重病にかかり逝去。信解院という。
(福間光超、『築地新報』1995年9月号)
上人が継職された寛文2年(1662)前後は、江戸幕府の諸制度がようやく緒に
つき、やがて仏教政策のうえでも全宗派に対し統一した寺院法度が出されるようになり、寺請制度や本末制度が確立した時代であった。また、上人の晩年のころには、幕藩体制の経済的な矛盾が露呈されるようになり、質素倹約が厳しく求められる状態であった。
上人の宗政は、このような時代に対応しながら、教団内部の諸制度を整えられたことに最大の特徴がある。従来、門末において依用されている免物や行事は必ずしも統一されているとは言えない点があった。このため歴代御影の色衣や形態の規定、和讃・御文章の抜粋の統一、法衣・勤式作法の改正などを制条に示すことによって、その統一をはかられたのである。それらが今日の末寺の行事・荘厳・声明などの基本となって受け継がれている。
このほか再三にわたって制条を出され、そのなかには法衣・衣服・お斎・葬式・乗り物等について華美にならないよう誡められたものもある。
教団組織のメンでは、とくに御坊(別院)の拡大を図られたことが顕著で、京都に来山御坊をはじめ、諸地の由緒寺院を御坊にとりたてられ、また、従来の御坊の再興・発展をはかられた。こうした宗政の動向のなかで、上人は江戸御坊の発展についても積極的にのりだされ、幕府の厳しい規制にもかかわらず特別の許可をえて、延宝7年(1679)には、紫宸殿造の大規模な本堂が完成した。
本山境内の建築物として特筆すべきは、延宝6年に建立された現存の経蔵であり、これは良如上人時代に得ていた点海版「大蔵経」のためのもので、回転式書架の構造が用いられた、いわゆる輪転蔵である。
上人は、仏学・漢学・書道に秀でた学徳兼備の方であったが、とくに書を通じて朝廷や書道家とも関係をもたれたので、霊元上皇の宸翰や国宝・熊野懐紙などが本山に伝蔵されている。また、大谷本廟の「明著堂」や「龍谷山」の額は上人の筆跡である。
享保10年(1725)7月、重病にかかり逝去。信解院という。
(福間光超、『築地新報』1995年9月号)

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