湛如上人は、元文4年(1739)8月、住如上人の逝去により24歳で第16世の法灯を継承された。
翌年には閑院宮家より始姫を内室として迎えられた。
ところが、湛如上人は生来、病弱であり、在職はわずか1年11ヵ月であった。
歴代宗主のなかでもっとも短い在職であった。
この間、上人は前代より東本願寺との間で紛争していた蓮如上人の墓の所有、ならびに参拝をめぐる問題に決着をつけられた功績をのこされた。
この問題、山科に建立されている蓮如上人の墓所が、古来より西本願寺の朱印地であり、西本願寺が管理し蓮如には同門主が参拝されている。
ところが享保18年(1733)に突如、東本願寺門主が参拝することを宣告し実行されたので、墓所において東西本願寺の門徒が入り乱れて暴力沙汰にいたる事件が生じた。
中興の上人としての蓮如上人の地位は、江戸時代になってからも東西本願寺教団内においてますます高まって行ったので、墓所を西本願寺だけの専有とすべきではない、という東本願寺の見解があった。
また、江戸時代前期より山科廟所を入手しようとする東本願寺の動きあった。
このため西本願寺は、寺社奉行に訴え、ついに幕府が介在するところとなったが、幕府は両派の参拝の自由を申し付けたり、あるいは両派とも参拝を禁止したりして、一貫した方針を示さなかった。
この事態に対して、上人は強硬に西本願寺の立場を主張されたので、元文5年、ついに東本願寺が廟所を別立する方向をうちだし決着をみた。
なお、上人は、文辞を好まれ、若くして漢詩に秀でられた文学青年であったので、飛雲閣の由緒や壮麗さを讃えた「飛雲閣記」などを遺されている。
寛保元年(1741)、26歳で急逝された。院号を信暁院という。
上人の逝去のあと、播州亀山の本徳寺に入寺されていた実弟の靜如上人がひとたび継職されたが、靜如上人はは本願寺の坊官役人などと気脈が合わず、いろいろな問題が生じた。
このため学林の学匠であった日渓法霖が生命を賭して両者を戒めたが、結局、翌々年に退職された。このような事情から、靜如上人は歴代宗主に加えられていない。
(福間光超、『築地新報』1995年11月号)
(福間光超、『築地新報』1995年11月号)
ところが、湛如上人は生来、病弱であり、在職はわずか1年11ヵ月であった。
歴代宗主のなかでもっとも短い在職であった。
この間、上人は前代より東本願寺との間で紛争していた蓮如上人の墓の所有、ならびに参拝をめぐる問題に決着をつけられた功績をのこされた。
この問題、山科に建立されている蓮如上人の墓所が、古来より西本願寺の朱印地であり、西本願寺が管理し蓮如には同門主が参拝されている。
ところが享保18年(1733)に突如、東本願寺門主が参拝することを宣告し実行されたので、墓所において東西本願寺の門徒が入り乱れて暴力沙汰にいたる事件が生じた。
中興の上人としての蓮如上人の地位は、江戸時代になってからも東西本願寺教団内においてますます高まって行ったので、墓所を西本願寺だけの専有とすべきではない、という東本願寺の見解があった。
また、江戸時代前期より山科廟所を入手しようとする東本願寺の動きあった。
このため西本願寺は、寺社奉行に訴え、ついに幕府が介在するところとなったが、幕府は両派の参拝の自由を申し付けたり、あるいは両派とも参拝を禁止したりして、一貫した方針を示さなかった。
この事態に対して、上人は強硬に西本願寺の立場を主張されたので、元文5年、ついに東本願寺が廟所を別立する方向をうちだし決着をみた。
なお、上人は、文辞を好まれ、若くして漢詩に秀でられた文学青年であったので、飛雲閣の由緒や壮麗さを讃えた「飛雲閣記」などを遺されている。
寛保元年(1741)、26歳で急逝された。院号を信暁院という。
上人の逝去のあと、播州亀山の本徳寺に入寺されていた実弟の靜如上人がひとたび継職されたが、靜如上人はは本願寺の坊官役人などと気脈が合わず、いろいろな問題が生じた。
このため学林の学匠であった日渓法霖が生命を賭して両者を戒めたが、結局、翌々年に退職された。このような事情から、靜如上人は歴代宗主に加えられていない。
(福間光超、『築地新報』1995年11月号)
(福間光超、『築地新報』1995年11月号)

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