永和2年(1375)4月6日、綽如上人の第二子として誕生。このころ本願寺は、南北朝の争乱の最中にあって不振をきわめていた。そうして、その活路を見いだすために父の綽如上人時代から北陸地域の教化に乗り出し、越中国井波の瑞泉寺を建立して拠点としていた。そのあとを承けて第六世巧如上人・第七世存如上人たちは北陸教化に尽力されたが、それはのちに蓮如上人によって華々しく展開される本願寺教団の基礎ともなったものである
巧如上人は、綽如上人のあとを承けて18歳で継職され、逝去される65歳まで在職されたので、宗主として活躍された期間は47年間におよんだ。この間だ、当時の宗政の基幹をなしていた聖教の書写・下付の教化活動を子息の存如上人・空覚(常楽台主)および孫の蓮如上人らの協力をえて、機内・北陸地域の門末に対して行われたので、これらの地域の古刹には、その聖教を伝えるものも見受けられる。
しかし、宗勢上最も顕著な功績は、北陸教線を進展させられたことである。巧如上人は越中瑞泉寺を基点に越前地域への教線の拡大をはかられ、越前荒川の門徒中へ弟の周覚を派遣されたので、ここに華蔵閣(興行寺)が成立し、同じく弟の頓円は越前藤島に進出して超勝寺を建立した。瑞泉寺へは第四子の如乗を住持としてしえられたが、のちに如乗は、北陸門徒の勢力を背景として蓮如上人を指示するなど大きな役割を果たした。
ところで、これら越前の教線の教化は北上して加賀国へも大きな影響を与えて行った。そうして、この教化の過程においては、越前山門徒が他宗の影響を受けて異端を唱えたので、これを破斥するなど、真宗の立場を堅持する姿勢を忘れられなかった。
なお、巧如上人が教化の一環として、大和国十津川の長瀬鍛冶屋道場に下付された本尊は、いわゆる「方便法身尊形」と呼ばれる絵像本尊であるが、この形態の本尊は、のちに本願寺と門徒を結びつける有力なものとなった。その端緒が巧如上人時代に見受けられるのである。
以上のように、巧如上人は本願寺一門をあげて教化につくされ、のちの教団の礎となる功績を積まれたのである。永享12年(1440)にご逝去。
(福間光超、『築地新報』1994年11月号)

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