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蓮如上人 本願寺第八世(1415~1499年)

 本願寺第8世蓮如上人は、応永22年(14152月、第7世存如上人20歳のとき長男として誕生。母は本願寺の召使いであった。この生母は、上人が6歳のとき忽然として本願寺より姿を消されたので、翌年、迎えた擬母如円尼によって養育を受けることとなった。

上人が誕生された当時の本願寺教団は、いまだ発展を遂げておらず、経済的にも窮乏のどん底にあった。上人が誕生される数年前に、本願寺に参詣される数年前に、本願寺に参詣した近江国堅田門の遺した記録によると、本願寺はさびさびとして人影がみえず、これに比べて近在に本拠を構えていた仏光寺は、名帳・絵系図を用いた異端的な布教方法によって盛大な発展ぶりであったと伝えている。

 蓮如上人が継職されたのは、長禄元年(1457)のことで、すでに43歳の壮年に達しておられた。この間、上人は不振を極めていた本願寺において、厳格な継母に遠慮しながら裏部屋住まいを余儀なくされていた。継職までに内室如了尼とのあいだに7人の子女ができていたが、手もとにおいて養育することができたのは長男の顕如のみで、ほかは口べらしの里子にだしたり、禅宗・浄土宗寺院などの小僧にださなければならなかった。このような状況は継職後もつづき、吉崎に本願寺を移して発展のきざしが得られるまで安定しなかった。ひと一倍に人情の豊かであった上人にとっては、生母との離別や子供たちとともに生活できないことは、大きな精神的な負担であったことが創造される。

 このような苦境のなかで、青年時代のより懸命な宗学の研鑽をおこない、専修・専念の他力念仏の信仰を確立されるにいたった。とくに仏凡一体を説いた『安心決定鈔』を尊重されたが、それは上人が常に、"救われようのない凡夫が仏にならせてもらうことの忝さ"を語り、そのために"信心をとらせたい"と言われていたことに通ずるものであった。また、その立場から当時の一般的な念仏の観念であった来迎往生や先祖供養を退け、「即得往生」を主張された。これらの念仏思想は、のちに「御文章」において遺憾なく発揮されるところであるが、同時に一切衆生の平等往生を立場とする大衆仏教の基本精神につながるものであった。

 継職後の上人は、「御文章」と「名号」を多用した独特の方法をもって教化に臨まれたので、広範な民衆に感化を与えるところとなった。とくに上人の教化の影響を受けたのは農民大衆であったが、この頃の農民は、村の惣領を中心に横のつながりを強化した、いわゆる惣村を結集し、従来の領主支配を断ち切った村の自立化を目指していた。また、上人は、いまだ教えを取り次ぐ専門の僧侶がいない状況のなかで、「講」を取り結び互いに信仰を語り合うことにより、正しい信仰がひろまることを願われていた。この講は、惣村の結集の動向とあいまって、広範な村々に成立していった。こうした講の広がりのなかで、御文章は信仰を定着化するうえで、名号本尊は本願寺に組織づけるうえで、それぞれ大きな役割を果たしていったのである。

 このようにして上人の教化が村落に定着しはじめると、荘園領主たちとの対立が生じるようになってきた。そうして寛正6年(1465)には、ついに比叡山の衆徒により大谷本願寺は破却されるにいたったので、その後上人は琵琶湖周辺の門徒間をおよそ6年間にわたって遍歴された。しかし、比叡山の膝元の地では安住を得ることができず、文明3年(1471)には、越前国吉崎へ移住されることになった。

 吉崎の地は、当時孤狼の住かといわれるほどの地であり、しかも三方が海に囲まれた用地の地形であった。また、この地の領家は、本願寺の縁者に当たる奈良大乗院経覚であったので、諸般の面で安住の場所と考えられるものであった。

 ところでその周辺の越中・越前・加賀地方はすでに綽如上人以来の教化地であり、本願寺と無縁の地ではなかった。このため数ヶ月後には坊舎が建立されるなど一面では順調な歩みであったが、やがて一年も経たないうちに上人を慕う農民門徒が大挙して群参するようになり、23年後には門前に数百の多屋が並ぶ盛況となった。このため近在の領主が白眼視するようになったが、門徒衆の頭である多屋衆はこれに対して一戦交える決議をするなどの事態が生じた。

 このような事態に直面した上人は、門徒の守るべき掟を定め「王法為本」の社会生活をもとめられた。一見、専修・専念の教えに背反するこの掟は、戦国の混乱から教団を守ろうとするものであったが、決して領主権力に依存して教団の発展を謀ろうとするものではなかった。外に領主権力の圧迫があり、まち内に地侍などの有力農民が門徒勢力を利用して領主のもとに被官しようとする動きがあった。これらを抑止して戦国の災禍から教団と門徒を守護しようとしたものに他ならなかった。当時、門徒の中心となった有力農民は「坊主」を称える者が多かったが、このころより上人の出される御文章には、坊主を批判したものが顕著になっている。

 上人の懸命な努力にもかかわらず、北陸地域の農民門徒は領主との対立を深めてゆき、文明6年には守護大名富樫氏の内紛に介入して一向一揆をおこすにいたった。

 折しも、吉崎の坊舎が炎上する災難にも遭遇したので、翌年、上人はこの地を去り、河内国出口へと移住されたのである。


 文明十年、蓮如上人は京都山科の地で本格的な本願寺建立にとりかかられた。時に大谷本廟が破却されて13年を経過していたが、この間、農民と一体化して大乗仏教を説き続けた上人の背景には、機内・近江・北陸をはじめとする諸地域に熱心な門徒支持者が排出していた。この勢力を背景に山科本願寺の建設が進んでゆき、やがて極楽浄土のようであると世人を驚嘆させた堂舎・境内が整っていった。また、応仁の乱以降は下克上の気風が急速に進展し、諸大名は本願寺勢力を巧に利用しようとする政策をとったので、本願寺はしばらくの間、安泰を得ることとなった。

 本願寺教団の本拠が定まると、真宗諸派の帰参が相次ぐようになった。かつては本願寺よりもはるかにおおきな大きな勢力であった仏光寺派・木辺派・出雲路派なども、上人に追従する門徒の動向に押され、門主ぐるみ本願寺の傘下に加わった。これにより本願寺教団は一層巨大化して行き、全国的教団としての基礎を築いたのである。

 ところで上人は、ようやく安定をえた山科本願寺に永住しようとはされなかった。延徳元年(148975歳でいまだ健在であったにもかかわらず、門主の職を実如上人に譲り、自由の身となって地方教化につくされたので、新たに紀伊、大和、瀬戸内地方に教線が定着しはじめた。そして明応5年(1796)にはこれらの処置の交通の要所に当たる大坂石山に御坊を建立し、ここを終焉の地と定めておられた。

 同8年、85歳の老齢で病に臥し死期の近いことを自覚された上人は、石山御坊内に葬所を設けられたが、実如上人の強い懇請により山科本願寺に帰山し、325日に逝去された。謚号を信証院という。

 前述の上人のご足跡は、上人が日常に語られていた「われは門徒に身をすてたり」という言葉に象徴されるように、大乗仏教教団を形成された道程であったことに多大の意義がある。中世社会から近世社会への移行期において、ほとんどの仏教教団が新たな権力との結合を模索していたなかにおいて、唯一、大乗仏教の道を歩まれたことは、大乗仏教や浄土教の展開史のうえからも、高く評価されなければならないものであろう。



(福間光超、『築地新報』19951月・2月号)


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