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実如上人  本願寺第九世(1458~1525)

実如上人は、長禄2年(1458)に蓮如上人の第五男として誕生、童名を光養、本名を光兼と称した。このとき蓮如上人は44歳であり、継職された翌年の誕生であった。

 

 延徳元年(1489)、蓮如上人は32歳の実如上人に寺務を譲られたが、第五男である実如上人を法主として選定されたことについては、次のような理由が考えられる。

 はじめに蓮如上人は長男の顕如に寺務の補佐を依頼されることが多く、次代の宗主を期待されていたようである。しかし、顕如は山科本願寺がおおよそ完成した文明15年(1483)に42歳で逝去した。また、第二男蓮乗、第三男蓮綱、第四男蓮誓は、当時、本願寺の主要地であった越中・加賀地方でそれぞれ活躍し、定着化していた。このため三河地域の教化に従事していた実如上人に寺務を委ねられたものと思われる。

 実如上人は温厚篤実な性格であったと伝えられており、大発展を遂げた本願寺教団の後継者としては適任であった。実如上人は蓮如上人のような改革者・開拓者としての華々しい道を歩まれることはなく、蓮如上人の指導のもとに着実にその教化方策を踏襲してゆかれた。

 そうして蓮如上人の感化がおよびながら、いまだ本願寺教団に組織づけられていない地域 の組織化をなしとげられて行った。そのちいきとして中国・九州・四国地域および関東・奥羽・北海道地域がみられる。このように本願寺教団を全国的規模に仕 上げられたことが、実如上人の歳代のご成績と言えよう。

 なお、惣村の育成とともに門徒農民と領主間の対立が激しくなり、越前の朝倉氏と加賀門 徒の紛争や河内誉田城の畑山氏攻略問題などが生じ、実如上人の心を煩わすことも多くなってきた。実如上人は必死になって戦国の争乱に教団が巻き込まれるこ とを避けようとされたが、憂慮すべき事態は次第に深刻となってきた。このため、本願寺血縁者による監視を強化するために、「一門・一家衆」の制度を設けた り、本願寺自体の権威を高めるために、朝廷への接近がはかられるようになったが、この方向性は次代の証如・顕如上人へと押し進められることとなる。


(福間光超、『築地新報』19953月号)


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