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証如上人  本願寺第十世(1516~1554)

 証如上人は、永正13年(1516)に誕生、父実如上人が59歳の時の晩年の子であった。このため、わずか10歳で第十世の法灯を継職され、母慶寿院らの補佐のもとに宗政を執られることとなった。

 

 おりしも世相は戦国の最中にあり、本願寺教団の運勢を背負って峻厳な道を歩まなければならなかった。その筆頭にあげられるのが、天文元年(1532)の細川晴元による山科本願寺の焼討ちである。この年6月、晴元は本願寺の加勢をえて河内の畠山義宣を征服したのであったが、8月 には京都の法華宗徒・近江の六角氏と手を結び、本願寺攻略の体制を整えた。そうして大谷の一向堂・大津の顕証寺と相継いで破却し、ついに豪勢を誇った山科 本願寺を焼討ちにしたのである。この自見は、朔日の見方が今日の敵となるという戦国大名の聖覚を盛りに表出すると同時に、農民大衆を基盤とした本願寺と戦 国大名とは、所詮、一致できないことを示すものであった。

 このとき証如上人は、若干17歳 の青年であったが、この苛酷な戦国の辛酸をなめ、本願寺を大坂御坊へと移されたのである。そうして両御堂をはじめとする諸堂や門が整えられ、一派本山とし ての体裁ができあがって行ったが、このたびはとくに警護に配慮し、堀や塀が厳重にめぐらされた。また近畿在住の門徒が警備のために順番で上山し、番衆をつ とめた。この大坂本願寺でとくに注目されるのは堀内の寺地に寺内町が繁栄したことである。のちに寺内町は十町余に分かれて数千軒から構成されるほどに発展 して行ったことで判明している。寺内町は「守護不入」という領主権力の介入を許さないと自立した町であり、本願寺領とも言うべき性格をもっていた。こうし た寺内町は本願寺の有力末寺にも成立したが、今日まで名残をとどめる町として、大阪府の堺市、富田林市、奈良県の今井町などがとくに著名である。そうして これらの寺内町と連携をもち、本願寺の経済や自立のためのおおきな支えとなったのである。

 なお、証如上人時代には、加賀の門徒領国の内紛である大小一揆のほか、大和、越前、畿内などで一向一揆が頻発したので、宗政の多くは戦国期の争乱に関連した問題に費やされたが、他面で朝廷と接近することによって本願寺の社会的地位向上に努められた。

 天文22(1553)39歳の若さで逝去、院号を受信院という。


(福間光超、『築地新報』19954月号)


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実如上人  本願寺第九世(1458~1525)

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