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顕如上人  本願寺第十一世(1543~1592)

 顕如上人は、天文23年(15548月、父証如上人が38歳の若さで逝去されたため、12歳にして本願寺第11世を継職された。

このとき顕如上人は、若年のため未だ得度が済んでいなかったので、証如上人は重病をおし て戒師となり、逝去の前日に得度式を行われた。従来、本願寺では親鸞聖人にならって、天台宗青蓮院において得度とする慣わしがあったが、これ以降は本願寺 において行われるようになり、宗教的自立性を増幅することにつながった。

 ところで証如・顕如上人時代は戦国の争乱に明け暮れする困難な世相のなかにあった。そ うして広範な村落を門徒化していた本願寺は、この争乱と無関係には存続できない状況に追い込まれていた。とくに顕如上人が宗政を執られたところは、天下統 一にむかう大規模な戦国大名の戦いが繰り返されるようになり、他方、覚知において門徒たちが一向一揆をおこしたので、宗政上においてもきわめて難局をむか えていた。このため、若年の顕如上人は、祖母慶寿院や一家衆の主だった者たちに支えられて宗政に当たられた。

 朝廷は、中世後期になると公領を失って極度の経済的疲弊に陥ったが、証如上人のとき以来、本願寺が積極的に助力してきたことによる褒賞として、永禄2年(1559)に本願寺に対し「門跡」勅許を与えた。このようにして、本願寺は寺院として最高の社会的地位につき、翌々年には、若干19歳の顕如上人が「僧正」に補された。

 農民大衆をふまえた本願寺の権威が確立すると、それは天下統一に躍起になっている戦国大名との衝突が避けられなくなった。元亀元年(1570)、28歳の顕如上人は、織田信長を相手に11年におよぶ石山戦争を戦われた。雑賀衆をはじめ諸国の門徒が生命を擁して協力したが、ついに本願寺側の、敗戦に等しい講和によって終決した。

 この後、顕如上人は、本願寺を鷺森・貝塚・天満へと移されたが、最終的には羽柴秀吉の命令により、天正19年(1591)に京都七条堀川の現在地に移基された。ところが、本願寺がようやく安住の地を得た翌年の文禄元年(159211月に急病により逝去された。顕如上人のご生涯は、戦国争乱の社会のなかを本願寺を背負って歩まれた悲劇の人生であった。行年は49歳、院号を信楽院という。


(福間光超、『築地新報』19955月号)


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証如上人  本願寺第十世(1516~1554)

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